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案外口にしてみるもんだ

そうだ、ここには節目となる出来事は残しておこうと思ってたんだ。およそ一年半前になりますが2度目の転職をしました。3社目です。

2社目には4年いましたか。

 

社会人10年選手になって、自分で仕事が出来るスキルがついて、会社ではなく自分にお客さんがつくようになって、若くもなくベテランでもなくいい脂ののり方をしていたと、自分で思います。

ですが日々の東京生活が合いませんでした。

毎日片道1時間半ちょっとの通勤で、都心の人ごみと喧騒と刺激の中で生きていましたが、そんな生活にずっとストレスを感じ、結局打ち勝つことなく逃げたくなっていました。

いつかは仙台か福岡へ、と。この「いつか」という言葉が人生には重要ですね。

 

結局自分の人生の見本は自分の親なんだなと思います。

自分は仙台というちょうどよい地方田舎都市に生まれ、12歳までいました。

父親は東証一部上場企業のサラリーマンで転勤族でした。

平日勤務、土日休み、車通勤。小学生の記憶ですが夜8-9時には帰ってきてニュースステーションを見ながら晩酌していました。

たまに出張で家を空けますが、休みの日には家族で出かけたり、友達家族と旅行に行ったりホームパーティーをしたり、夏はキャンプ、冬はスキーと、絵に描いたような平穏な家庭だったと思います。

 

社会人10年選手の自分はそんな地方勤務の父親からは離れた、東京戦士になっていました。

家族もでき、子供が生れてまもなく手のかかるころ、朝早くに出勤し、夜の10-11時ごろに帰ってくる、つまりは妻はワンマン子育て状態でした。

この状態が正しいわけがない、と、小さいころの父親の記憶と照らして、憧れて、悩んでいました。

そんな通勤距離に住んだのが悪いのは分かっていますが、もっと都心寄りの、通勤電車の窓から途中に見える住宅の密集した、人のごちゃっとした、自然の少ないところに住む気にはなれませんでした。

 

そして仕事も、好きなことをしているが故、好きな仕事への信念を通せないことが少し出てくると途端に虚しくなるのですが、その「少し」が自分の中で大きく目立つようになり、生活へのストレスも相まって、「いつか」仙台か福岡へ、と転職サイトを覗くようになっていました。

 

でもこの「いつか」という思考が害で、思うだけで何も行動に移さず、ただいつかいつかと夢を見るばかりで時間が過ぎます。

人はお金がなくては生きていけません、もしくは食べものを獲るための技術が必要です。

仙台か福岡へ帰るため、これまでのキャリアに関係ないジョブチェンをしようとまで考えましたが、一層現実味を帯びず「いつか」とばかり考えていました。

結局自分にはサラリーマンとして働く道しか見えず、その場合は転職市場で価値があるうちに行動に移らなければ、時間が経って歳をとるほどに身動きがとれなくなる焦りがありました。

 

そんなとき、今の仕事の募集があることを、その会社の知り合いから教えてもらいました。

業界の展示会などで世間話をしているときに近況を言っていると、冗談交じりに、うちに来なよ、いやいやそんな、程度でしたが、

実際に募集枠が出てピンと浮かんでくれたそうな。

思いは内に秘めるだけでなく口にしてみるもんだなと。どこにチャンスがあるか分からない。

 

悩みました、転職すべきかどうか。

その時の仕事自体は好きでしたが、きっと40歳になっても同じことをしているだろうなと。50歳はどうなっているか分からないなと。

その点、その歳その歳に応じた責任ある仕事をステップアップしていけそうなポジションでした。

いい歳なのでね。いつまでも同じことばかりやっていられないなと。

2社目に4年いて、何か成し遂げたかと言われれば志半ばでしたが、次のレーンに移るには今しかないと。

しかし浜松。夢見た「いつか」仙台か福岡、この話に飛び込めばその夢はもうないだろうなと。

 

仙台に12年、地方中枢都市で街もありながら自然のレジャーも多い東北が居心地よく、

福岡に引っ越してすぐは友達と離れたことと文化の違いとで、仙台に帰りたいといつも思っていましたが、

福岡に10年、都会で不自由しないうえ愛嬌があり感度の高い福岡がいつの間にか大好きになっていました。

そして就職で東京に出て10年、たくさんのヒト、モノ、コトに溢れた刺激たっぷりの20代を過ごしましたが、

10年いても東京を好きになれませんでした。

東京を出たかったのはこれが大きいです。だって好きにならなかったんだもの。

 

転勤族の親のせいで、実家は何度も移り、今は親の本拠地の広島に戻っています。

盆正月の帰省で広島に行ったところで、自分には思い出も友達もいない。同窓会もない。近所でばったり古い友人に、なんてこともない。

幼馴染がとか、○○君のおばちゃんがーとか、あそこのお店が潰れたんだってとか、昔ここでよく遊んだなとか、あそこであいつが働いてるよとか、

帰省したところでなにもない。

自分には帰る場所がない。心のよりどころの故郷がない。とずっと感じていました。

だから仙台か福岡に帰ることを夢見ていましたが、これを機についに諦めました。

いまは自分の子供が浜松を故郷として安心できるように、自分が感じるこの物寂しい思いをさせないように、この地で平穏な生活と思い出を、自分の親がしてくれたように作っていきたいなと、思います。

 

転職してみて、まさに天職だと思いますしょうもないですが。

転職の応募を進めてくれた会社の人が言っていましたが、音響が好きなら幸せな環境の会社、です。

音響理論を共通言語に、常に新しい技術や知識を勉強できて、常に良い音のことだけを考えられる環境です。

自分の職務は海外現法を相手にしています。体半分、海外を向いている感じです。

ミーハーと思うかもしれませんが、海外生活をしてみたいと思っていました。

理由は単純で、海の向こうには文化の違う外国があって、そこに行く手段があって、実際にそこに暮らして働いている日本人がいるんだから自分もそこに行ってみたい、

というだけです。

同じ理論で、宇宙にも同じくらい行きたいですなぜならこの時代宇宙に行っている人がすでにいるんだから自分もそこに行ってみたい、という感じですが、

さすがにそこは難しいので、丸い一つの地球、人種や言語は違うけど良い音をという共通の意識で一つの傘の下、みんなと一緒に働けたら楽しいじゃないですか。

 

父親の働き方とはまた違いますが、それでも東京にいた頃より家族に貢献できているとは思います。

次は海外勤務を夢に、小刻みな夢を口で発しながら進んでいきたいと思う次第でございます。

 

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誰かの為に 自分の為に

ここ2年弱程、生活のすべてを飲み込まれていた不妊治療について、そのとき考えた事とか気持ちとか残しておくため、あとこれをたまたま誰かが見てどう思うか分からないけど何かの記録とするため、誰かの為、自分の為に書いておこうと思います。

 

 

不妊を疑ったのは、妊活を始めて半年、うんともすんとも言わなかったからです。正常なら妊活を始めて半年で妊娠する確率は2割、一年やれば4割だそうです。

試しに病院へ行ってみたらあっけなく不妊と診断されました。

「男女ともに中等度の不妊症」と言われたました。ショックというよりは当事者意識のない、え、そうなの?そうなんだ、ぐらいの感じでした。

まさか自分がそういうことになるとは。

結婚したら当たり前の様に子供を作るというステップが、いきなり遠いものになりました。そもそもが30日に1度のチャンス。そこに正常で2割とかの受精確率。知れば知る程、あんな奇跡無理だろうと。

色んな統計があるけど、6人に1人は不妊だと聞きます。

 

検査すると自分は、精子の数、運動率がよくないとのこと。数が少ないから精子の奇形率も上がる。

ただ、男側は生成さえ出来れば、良いものを取り出す事は医療で出来ます。取り出してしまえばそのあともどうとでも出来る。

女側は生成から排卵、着床までの過程で色んな要素があるから体のなかで障害となりうるステップが多い。これが大変なのです。

 

 

最初に行った病院は検査だらけでした。

検査の結果の説明が少ない。次のステップが見えない。専門用語ばかりで聞き返しても意味が分からない。

これはそこの先生の性格によるものだと思うけど、信頼することができませんでした。

検査しに通って、検査結果を聞きに行くと次回はまた別の検査だと言われる。

半年間通って、検査ばかり。家でタイミング授精をやりつつ、ここでは人工授精を一回だけしました。

人工授精の成功率を上げる為に女側の薬をもらうのだけど、体に合わない強力なやつだったみたいで、妻は結構しんどそうだった。

病院には先生が学会で発表したことや表彰されたことのスクラップ記事とか賞状が貼ってあって、

この先生は患者を直したいんじゃなくて研究で表彰されたいんじゃないかと思いました。うちらのことはどうでもいいから成果を上げたいんじゃないかと。

病院に何を期待するかだけど、ここを信頼することはできないと思って病院を変えました。

 

 

二つ目の病院も、結果合わなくて変えました。

ここにも半年ちょっとぐらい通ったと思うけど、人工授精する為に準備として卵子を育てる薬を出され、排卵予定日が近づいてくると数日とびで通院して成長の度合いを見られる。ベストなタイミングで受精させるために。

これは普通に仕事してると無理なんですよね。こんなにしょっちゅう休むのは。

会社の人に理解がないと、休みを申請しづらい。

 

で、ようやく人工授精予定日、期待して病院に行くと、もう排卵してしまってるのでまた来月、と言われました。

1ヶ月に1回しかないチャンスに合わせてこっちは休みを会社に申請して病院に来ているのに、タイミングをうまく計れず何回もチャンスを無駄にしました。

 

卵子の数や妊娠率は年齢に関係するって、分かりきってるから焦るのに、このまた1ヶ月無駄にした、というのがほんとにしんどい。

また30日やり直しか。と。また振り出しか。と。

また会社を休まなきゃ。と。

いっこうに進まない、トライすら出来ないのがほんとに腹立たしかったです。

 

ここの先生には会ってないけど、ここは許せませんでした。

妻が言うには毎回の診察ごとに前回の話に戻っちゃって、患者の事を覚えていない。

こいつはお金が欲しくてずっと通わそうとしているんじゃないかと、そこまで思いました。

言われる事が信用できないから、この先やっていけないと思いました。

 

 

3つ目の病院に移りました。

ここはネットでも評判のところで、そのために待ち時間が半端なく長いという口コミのところでした。

なので最初に病院選ぶ時も避けていたところでした。

行ったらまず、検査してすぐに、人工授精1回してみて無理なら体外授精に移りましょうとのこと。

早く妊娠してしまいましょう、と言ってくれました。

必ず妊娠できますから、と。

体外授精については抵抗ある人も多くいると思います。自分も治療始まるときはなるべくなら人工授精で、と思ってました。

でも、この1ヶ月に一回しか来ないチャンス、簡単に月日は流れていきます。

30代前半の人の人工授精の成功率は1割ほど。

出来るひとは5回までに成功するけど、妊娠力に依るものだから回数重ねれば確率が上がるもんでもないので、その先どうするかという方針は、医者の判断が重要だと思います。

可能性を信じて何年も人工授精を続けられるかというと、精神的にうちらは無理でした。

 

すごく話を聞いてくれる先生で、たぶん患者の気持ちをよく分かってるんだと思う。

あとで思ったけど、待ち時間が長いのはこの先生が優しすぎて、全部の患者に等しく全力で接して話を聞いているからじゃないかなあと思いました。

先生の家庭が心配になるほど病院に缶詰めのようで、病院の前のコンビニでご飯を買って来てるところを見かけたこともあります。

そのとき、病院の外でもこちらに気づいてくれました、そんな先生。

 

朝9時の予約で、帰れるのは14時とか15時とか。午後に予約すると、21時とか22時とか、日が変わる時もありました。

先生も看護師さんも仕事頑張っててすごいなあと思います。

待ち時間が長いからいつも前もってツタヤのコミックレンタルに行って10冊ぐらい借りて、待合室に何時間も座って読み倒して、

妻は毎回注射で血を抜かれ、卵胞の成長をみて、何時間も駐車してた車に乗って帰る。

また来週、先週借りたマンガを前もって返して、次のマンガ10冊借りて、何時間も待って、帰る、

というのを何週間、何ケ月も繰り返しました。

ハンターハンター、キングダム、テラフォーマーズ、僕だけがいない街、亜人、東京グール、あと何読んだかな。

この繰り返しです。この生活はいつまで続くのだろう、終わる日がくるのだろうか、と、ぞっとする毎日でした。

生活を不妊治療が支配していました。

 

夜12時過ぎて終わった日、ぐったりして車で帰ってる途中、もうしんどくて涙が出てきそうになって、運転中しゃべらずに堪えて帰る日がありました。ご飯を食べに深夜のファミレスに寄ります。妻は妊娠率を上げる為にタンパク質中心の食生活をしてるからご飯は食べないようにしています。

でもその食生活が体に合わないのか、タンパク質ばっかりだと体の調子が崩れて気分悪くなるらしい。

病院でもらったプロテインも、スープに溶かしたりいろいろ飲み方試したけど、結局無理でした。

心も体もぐったりでした。

 

結局人工授精でうまくいかず、体外受精に移ることに。

いろんな誓約書にサインをします。

体外受精の予定日が近づいてくると、卵胞を多く育てるため且つ、排卵してしまわないようにするため、毎日2種類の注射をうつ必要があるのですが、毎日病院には通ってられないから注射キットをもらって家で自分で打ったりもしてました。あとで知りましたが病院で打つ値段の2〜3倍します。

痛みを我慢しながら自己注射する妻、溜まっていく使用済み注射キット、見ていて本当に痛々しくて辛かった。

 

 

 

そしてようやく体外授精の採卵の日、それまでの妻の努力が実ってか、かなりの数の卵胞が採れました。確率の問題なので、卵は多い方がいい。

麻酔でぐったりしてたけど、あの時の妻はこれまでで一番嬉しそうな顔をしてました。

 

手順としては、これを自分の精子と受精させ、培養液である程度成長させた後、また子宮に戻します。

 

30個の卵胞が採れて、結果、その7割の20個が受精可能な成熟卵、その8割の16個で受精確認。うち6個を凍結保存して次回以降へまわし、残りの10個を培養液で育てる事に。順調に育てば子宮に戻して着床するのを待つ、というやり方です。

 

その10個、子宮に戻せるまで育ったのは0個。全滅しました。

結果を聞かされた妻は病院で泣いたようです。

このときの絶望が一番大きかった。

かけてきた時間と体力とお金と、あと希望がぜんぶぱあになったと思った。また最初からかと。

また通院、また食生活、また注射、また繰り返すのかと。 

 

 

次のステップ、体外受精再チャレンジ、また排卵周期を待ちますが、次は凍結した受精卵が6個あるのでそこからスタートです。

1ヶ月経ち、6個のうち4個を解凍、前回とはやり方を変え、培養液では育てず、ある程度したらすぐに子宮に戻して、子宮内で育てる方法をとりました。

 

解凍した4個の受精卵のうち一番数値のいいものを子宮内に戻し、あとは着床してくれれば妊娠判定、という段階です。

これも妻は術後麻酔でぐったりしつつ、嬉しそうな顔をしてました。相当な体への負担はあったはずです。

確実に次のステップに向かっている事が嬉しいのだとか。これまで時間がかかったけど、いままでの検査やタイミング外されてたときとは違います。 

 

1〜2週間後したら病院にその確認に行って検査して妊娠したかの判定を聞きます。

 その間、期待と不安が入り交じって状態で過ごしているのですが、判定が出る日が近づくと市販の妊娠検査薬でも陽性か陰性かどうか分かります。

病院に行く前日、妻に夜中にたたき起こされて妊娠検査薬で陽性反応が出てるのを見せてきました。

待ちきれず自分で検査薬を使ったようですが、初めて印が出た妊娠検査薬を見ました。

 

 

そうして着床し、胎嚢と心拍を確認し、妊娠に至りました。 

 

 

施術に関しては、状況に応じていくつかの手段を選ばなければいけません。場合によっては、判断によっては、これまた今までの努力が水の泡になることもあります。

受精卵を子宮に戻すときも、状態によっていくつか手段を選択しなければいけないのですが、

この大事なときに先生の判断を信じる事ができたのは、精神的に大きかったと思います。

 

 

あとは病院で薬もらいながら2ヶ月ぐらいは成長を見つつといったところでしたが、

先生は「早めに卒業しましょうか」と、通院を通常より早く終わらせてくれました。

本当にいい病院、いい先生だったと思います。 

 

 

 

マタニティマークを付けている人がどうこうされるニュースがありましたが、当事者からすると、苦労なくあのマークをつけるに至った幸せそうな人を見ると、不妊の人のことを知らないんだろうなあと勝手に卑屈に思ったり、心の奥深くから黒い感情が沸き起こって支配されます。

もう駄目なんですよね。不妊は心を蝕んでいきます。

ニュースのパネラー席で言ってる人がいましたが、あのマークは幸せの象徴のように見えてしまうのです。

恨めしく妬ましく見てしまうのです。

妻と買い物とかに行くと、同年代で赤ちゃんを連れている夫婦を見るのが本当につらい。うちにはあんな未来は永遠に来ないんじゃないかと。

「でもいつかできるでしょ」と人は言います。

うちの親も、健康に過ごせばいつか子供が来てくれる、と言います。

当事者はそうは思えないんですよね。強く望んで、辛い毎日を過ごして、絶望の中に生きています。

不妊症の問題はその辺の心の状態も含められるべきものだと思います。

マタニティマークのトラブルのニュースも、自分はそこまで過激な行動に出ることはありませんが正直気持ちは分かるんですよね、どんなに暗い気持ちでいるか。

健常者しかいない場で誰が悪いとか理解できないとか、弱者・マイノリティーのことを論じるのは無駄です。

ああいう問題はこの不妊治療の現状が理解されていない、表に出ていないことが、一番の社会問題であって、どんどんマイナス方向にスパイラルしていきます。

 

 

病院ではたまに患者さんが診察室で大声で泣いているのが聞こえます。目をこすって待合室に戻ってくる人がいます。

どんな辛い宣告を受けたのだろうかと、想像します。

診察券の番号で呼ばれるとき、だいたい500番ぐらい前までの番号をよく聞きます。たまに自分らよりも2000番も若い人がいたりします。いったいどれだけの時間戦って来たのだろうと思います。

 

自分も妻も、何度も泣いています。何が正常かわからなくなります。

生活全てが治療中心になって、息抜きする時間も、お金も、余裕も失っていました。

永遠に暗いトンネルの中にいて、ここを抜ける日が来るのだろうか、どんどん細く、深く、暗く、この先に出口はないんじゃないかと。

不妊治療は孤独です。正常な社会からはみ出してこぼれ落ちてしまったような、見える世界がくすんだ虚構のような感覚にあります。

同じ立場の人と情報交換することが本当に大事だと思いました。

そこで文章にしておこうと、誰が読むか分かりませんがここに残しておきます。

 

 

うちはそれでも2年弱、長い人は何年も続くのに、それに比べると自分たちは「ラッキーだった」という感想が正直なところでした。

いまも病院の前を通るとき、見上げると夜遅くても電気がついています。まだあそこで戦い続けてる人がいたり、どこかで不妊に悩んでいる人がいることを考えると、つらかったときの感情が蘇ります。

 

自分の為に、誰かの為に、ここに残します。

 

  

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マイカードリーム

車を買った!

大学生ぐらいからなんとなくずっと憧れてたマイカーというもの。

自分だけの空間で行きたいところへ好きなときに行ける。

贅沢なパーソナルスペース、所有欲、旅行、いろんなキーワードで夢が叶う。

 

昔はパジェロミニが欲しかった。

あのサイズ感なのにずんぐりしたボリュームが、自分の空間を囲んでくれるのがよい。

あのときは会社の人に連れられ試乗までしたな。よかった。

でもいざ実際に買う実感が持てなかった。

 

恵比寿に住んでたとき、となりの建物にBMWの奇麗なホワイトのSUVが置いてあった。

車高が高いけどおしりにかけて流線型に収まる感じがとてつもなくかっこよかった。

憧れたー

調べたらべらぼうにお高い。

こりゃ無理だと思い、audiの似たような形の車を見てみた。かっこいい。

でもBMWほどど真ん中じゃない。BMWほど高くないにせよ、高い。

こりゃ無理だ。

 

そんな感じに車の憧れが、国外のメーカーばかりみるようになっていった。

高飛車とかそんなんじゃないんです。

単純に憧れさせるのです。

 

 

スタートはそんな感じ。

 

奥様が、昔からMINIが好きだったという。古いほうの。ルパンが乗ってそうなやつ。

そんな話を聞いて、見てみると4ドアタイプのものがあるではないか。

これが一瞬で決着をつけた。

 

奥様が結婚式の時に誓いの言葉で言った内容はこのへんに端を発します。

いまはMINIはBMWが出してるし、「BMW」という響きの破壊力もおもしろいし。

憧れとか夢をひとつひとつ叶えていこう。

 

 

 

試乗したらもうだめだった。内装も運転も見事にハートを鷲掴み。

高いけど、他の車に諦められる気がしなかった。でも高い。

 

でもその2週間後、決めてしまった。

そしてその2週間後、納車。

 

おしりがかわいい。

 

近所のドライブスルーに行く。

見よこのサイズ感でずんぐりしたボリューム。

 

そして去る。おしりがかわいい。

 

 

これから思い出を増やしていこう。

どこへでも行ける!

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HONEYMOON

 

新婚旅行に行ってきたのでその旅行記を。

パリとローマ。とてもよかった。PHOTOページも更新してます。

7泊9日ぶん、どっと書きます。

 

 

5月2日(金)「成田、ビール、数独」

 

まず気分を最高潮にもっていくために、成田までは成田エクスプレスを使う。

家の駅からリムジンバスも出てるけど、そうじゃないでしょうと。

ここでNEXに乗らずしていつ乗るのかと。

そもそも、パリに行くのに羽田からの便もあったけど、わざわざ断って成田発に。やっぱりそういうところからだよね。

新宿から乗るNEXは半分が外国人で、そこはもうすでに外国のよう。しかし道中半分寝た。

 

そして成田でビールを一杯のんで、搭乗。国際線のあの長い待ち時間は、気持ちの面でもビールの面でも、あの時間必要なのだ。

飛行機は断然日本の航空会社がいい。サービスもいいけどトラブルのときに安心する。

13:00ごろフライト。

 

 

そして11時間のフライトの末、パリのシャルルドゴール空港へ到着。

この円形の合理的なターミナル1がすごく好きで、そのためにターミナル1に到着するANAにしたのだ。

出発、到着、サテライト、空港バス、鉄道、すべてが円構造がもつ効率性に帰納するこの宇宙的な無骨なデザイン。たまらんのです。

空港に20:00ごろ着。バスで市内に移動して地下鉄に乗ってホテルに着いたのが23:00ごろ。

泊まったホテルの人が、いい人で毎日すごくよかった。

フランスの人はたいていいい人でいいイメージだ。

 

 

 

5日3日(土)「エッフェル塔、ハンバーガー、デパート」

 

この日は朝からエッフェル塔へ。

といってもホテルでよく寝て遅めの朝食だったので、お昼寸前ぐらい。

 

ホテルの朝食ビュッフェがすごくいい。

黒人のおじいさんのベテランギャルソンのような人が、コーヒーを注いでくれる。ミルクは「No, thank you.」としっかり断る。

ソーセージの肉感がよい。スクランブルエッグのほどよいびちょびちょがよい。野菜はパプリカをオリーブオイルで。クロワッサンは史上最高においしい。

 

 

エッフェル塔は、あの形状やあのライトアップや、このパリという背丈の低い古都のなかでの存在、麓の芝生など、憧れの対象である。

ここは今回の旅行のなかでのマストプレイスで、地元のパリジャンや観光客の欧米人にまざって、芝生に寝転がるのだと、出発前から心してかかった。

あと、現地のテンションでサングラスを買うのだと、心してかかった。

この旅、だいたい快晴ですばらしかった。

 

 

芝生はとてもよかった。たぶん、朝から夜までいられる。

欧米人は芝生を見ると寝転がるらしい。すばらしいと思う。

 

お昼を食べようと、いろいろ練り歩く。

しかし、高いのと、昼からコースみたいなの出ても困るので、なかなかお店を決められないままたしか14:00ぐらいになったと思う。

 

ようやく決めた店は、外に出てるメニューの看板にハンバーガーの文字が見えたから、ここならカジュアルだろうと。

そして地元のパリジャンと同じくテラス席で日光を浴びながらハンバーガーをいただく。このハンバーガーが本当においしかった。

軽く焼いたパンも肉も、付け合わせのフレンチポテトもサラダのドレッシングも、すべてがおいしくて感激した。

ボーイさんがイケメンだった。黒いシャツがよく似合う短髪。

トイレを借りていいかと聞いて、店内のトイレに向かうと前にトイレにいった別のん客の若いにいちゃんが、今は行かないほうがいい、誰かが#$%&したみたいだ、あと5分待ったほうがいい、と教えてくれた。

半分よくわからなかったけど、おそらく誰かがぶちまけたのだろう。

こんな見るからに外国語通じなさそうな日本人に、気さくに話しかけるその自然体が楽しかった。

 

 

食べた後は、街をぶらぶら歩いて世界最古の高級デパートというところにたどり着いて、お土産なんぞを物色。

ホテルの近く、サンジェルマンという街、路地裏を歩いてチョコレート屋さんに行ったり、デザイン系の雑貨屋さんを見たりした。

この雑貨屋さんがとても気に入った。ビビッドなデザインの雑貨を揃えてて、ここのiphoneカバーがとても気になった。

パリの街のモチーフのデザインで、自分にとってはザ・お土産、という感じに映った。

これをここで買わなければ、片道11時間、有給4日、数十万円というすべてを台無しにしてしまう気がした。

しかしここで買ったところで、日本に帰ったら冷めて、なんでこんなものに15ユーロ使ったのかと、寂しくなるような気もしていた。

静かな店内でずっと悩んで、店員さんには冷たい目と冷たい態度をとられた。

 

初日に疲れ、よるご飯はデパートのお惣菜にしようと、再び世界最古の高級デパートに戻った。

計り売りのお惣菜、観光客相手にはすごい量を盛ろうとしてくるから、結構な精度でグラム数を伝えると、冷たい目と冷たい態度をとられた。

ホテル近くまで戻ったところで、食べるためのフォークがないことに気づく。

世界最古の高級デパートに戻り、箸をゲット。疲れて死んだ。

初日ですでに3回行った。

 

とくにいい写真はなく。

 

 

 

5月4日(日)「ひろおみ、ギャラリー、ルーブル」

 

この日は年始ぐらいから計画を立てていた、ひろおみと落ち合う日。

オランダのアムステルダムからパリまで、深夜バスで7時間かかけて、パリのホステルにまで泊まって来てくれた。

 

マレという街の芝生のある歴史的な何かの広場で合流。

この芝生でもよく寝転がった。

お昼ご飯の店を探しがてら、そのへんを散歩する。

ひろおみによれば、ギャラリーが多く、落ち合う前日もギャラリーやらで作品を見ていたそうな。

その一つ、現代アートのギャラリーに連れて行ってもらうことに。

ギャラリーは街の中に、他の建物となんら変わりなく急に現れ、知っていないと知り得ることはなかったであろう感じ。

玄関チャイムを普通に鳴らして中に入れてもらう。はずが、この日は日曜で休みか、誰も出ず。

ちょうどタイミングよく中から、同じようなギャラリー巡りしているような2人組が出て来たので、オートロックがかかる前にさっと侵入。

あのへんの建物の、壁の向こう側を見れてよかった。作品は建物の中にあってガラス越しに遠巻きにしか見れなかったけど、その空間を味わえたのでよしとする。

 

 

お昼はなんとなくあったレストランでお肉とワインをいただく。

昼間っからワインなんて、いいなあーとひろおみは言った。なんか、このへんに住む人は、楽しそうでいいな。

お会計して店の人におつりをチップとして渡すときひろおみが「You can take.」と言った。なるほど便利な言葉だと学習し、その後何度も使う。

 

そのあとは、妻がガイドブックから探し出したチョコレート屋さんでお土産とお茶を。

日本人の店員さんがいたり日本人客がたくさんいたりして楽だったけど、ここは雰囲気がすごく上品で、カウンター越しにチョコをひとつひとつ選んだものを箱に詰めてくれる。

 

 

そのあとは近くのマルシェに寄ったほか、あてもなくパリの街を歩き回った。日本人だらけのオペラという街、ルーブル美術館の庭、セーヌ川のほとり。

けっこう寝転がった。ノルマ的にはもういいだろう。

ここでもサングラスを探すがヒットがない。

遅めの夕暮れで19:00とか20:00とか。日が傾いた景色もよい。

ひろおみの帰りのバスまで、ビールを一杯、簡単に客引きにつかまった店に入る。

 

 

ひろおみの近況を聞いてると、すごく刺激をもらう。アートに生きる人の感性をすこし覗かせてもらうだけで、自分には見えていない物事が世界にあふれている事を知る事ができる。

パリで会えてよかった。

ひろおみと別れ、コンコルド広場のオベリスクという、マリーアントワネットが処刑された時にどうのこうのあったらしいところを通り過ぎ、そこで遠くに22:00のシャンパンフラッシュのエッフェル塔が見え、心が湧いた。エッッフェル塔には登らねば、これも後悔するだろうと思ってた。

次の日登ろう。

 

 

5月5日(月)「ルーブル、サングラス、エッフェル塔(2回目)」

 
この日はオプショナルツアーで申し込んでいた、ルーブル美術館へ。
ツアー会社に朝、集合すると、かき集めた様に日本人がたくさんいて、日常からどれだけ離れていたか、思い知った。
集団行動がひどく恥ずかしくなった。けど、美術館の中はどの国も同じ様に集団行動のツアーがいた。
世界各国、各大陸。これだけの人種がこれだけの人数一度に集まる観光スポットが、日本にあるだろうか。
あとから思ったが、自分はオルセー美術館のほうが興味があったのかもしれない。
あと、ツアーはあまりよくない。自由が奪われる。
 

 

とうとう耐えられずに日本食屋に行ってカツ丼を食べた。

日本食は最高だと心の底から思った。出汁が最高なのだ。

あと、サングラスをとうとう手に入れた。

 

この日は一度ホテルに戻って昼寝をして、夜のエッフェル塔に備えた。

22:00ぐらいにホテルを出て、エッフェル塔に向かった。

最初に来た時は、上に登るのにすごい列が出来てたけど、夜はそんなでもなかった。

並んだチケット売り場がエレベータのチケットを売ってなくて階段のみだったので、足をぱんぱんにして第2展望台まで登った。

第1展望台までビル10階ぐらい?第2展望台までその倍ぐらい?よく人間をここまで階段で登らせるものだ。

 

 

東京タワーの赤いライトアップも好きだけど、単純に黄色いだけのライトアップも奇麗でいい。

夜の明かるさで街が青白い。街は白壁に青い屋根の建物で統一されている。そこにぽつぽつの黄色い街灯が見えたり部屋の灯りが見えたり歴史建造物のライトアップが見える。とても幻想的。

 

毎時00分のシャンパンフラッシュを見るため、22:00まで中のコーヒースタンドで待つ。晩ご飯代わりのプレッツェルをコーヒーでほうばる。塩っけがおいしい。

 

 

冒頭の写真は、エッフェル塔から降りて台の上に乗って写真を撮っていたら、観光客らしいおばさま2人組に笑われ、そのままカメラを渡して撮ってもらった。先端まで入れないものなのな、外人。

 

 

5月6日(火)「デパート(4回目)、雑貨屋(2回目)、寝台列車の老夫婦」

 
パリ最終日。ホテルのチェックアウトをすませ、大きなスーツケースを二つフロントで預かってもらって、4度目の世界最古の高級デパートに行く。お土産をいい加減買わねば。
うちの親から「パリらしいカフェオレボウル」という微妙なミッションをもらっている。前半の形容詞が微妙。
小道のお店とかいろいろ見たけど、「パリらしい」にぴんとくるものがなく、デパートの食器売り場でようやくそれらしいものを見つけた。
色違い4つセットで29ユーロ。1つでいいのだが。交渉するも笑われ撃沈。
 
そして気になったiPhoneカバーの雑貨屋さんへ。もう心に決めたのだ。
店に入る瞬間にボンジュールを言えば、冷たかった店員さんも笑顔で歓迎してくれる。
iPhoneカバーを買い、これで満足感もミッションも達成された。
いま日本でこのiPhoneカバーを見ながら思うが、買ってよかった。
秋に新モデルが出るかもしれないが、そういうことじゃない。買ってよかった。
 
今回の旅行、2都市目はローマへ。移動にはパリリヨン駅から20:00に出る寝台列車で。
駅にお昼過ぎに移動するも、大きい荷物があるので特に動かず、結構な時間駅で潰した。
 

 

thelloという名の寝台列車、パリリヨン駅を出たらイタリアのミラノセントラーレ駅に朝6:00に着く。

駅の案内板には、何番線に電車が入るのかいつまでも表示がなく、気づけばそこにthelloと書かれた電車があった。あぶない。

乗り込むと、日本人でも狭いと感じる個室。1等ではないのでしょうがないのだが、飛行機にしても何にしても、日本人でも狭いのに外人は大丈夫なのだろうか。

 

出発すると、即効で酔うぐらい揺れた。乗り心地はおすすめ出来るものじゃない。

楽しみにしていた食堂車は、乗客人数分の十分なスペースはもちろんないのと、スタッフが見る限りバーとレストランに一人ずつで、すごく混んでた。

数十分待ってると4人テーブル席が空き、そこに座ると、フランスからイタリアに旅行に行くという老婦人と相席することになった。

とても陽気でいい人だった。もじもじする日本人に対して、興味を持って優しく楽しく話しかけてくれた。もう仕事はリタイアしているという。友人が日本で役者さんの仕事をしているという。カメラはPanasonicだった。漁師が運ばれてきたら「イタダキマス!」と言ってくれた。ならばと、こちらの料理がきたときも本家の「いただきます」を返すと大笑いしていた。

思い出に残る、いい時間だった。

 

 

 

5月7日(水)「洗礼、パスタ、ジュニアスイート」

 

朝の6:00、ミラノ駅到着が近づくと、車掌が前日回収したパスポートの返却に起こしにくる。

揺れがひどくて気を抜くと酔いそうだったので、あまり眠れず。

ミラノからローマまでは、9:00発のフレッチャロッサという新幹線的な特急に乗って移動する。それまで待ちである。

 

まず駅のトイレに行こうとすると、有料で、そのすぐ近くに地元の若者らしき4,5人の集団がこちらを見ている。

これはトイレ行くとやばいかなと思い、トイレをあきらめ、駅にあるマックへ向かう。

気づくと、後ろからさっきの集団の1人がついてきている。あやしい。

立ち止まってやり過ごすと、その人はマックに入り、レジにある紙ナプキンを一枚だけとって、すぐにUターンしてどっか行った。あやしい。イタリアはあぶないところだと感じる。

 

朝食を食べようとコーヒースタンドに行く。パニーニがいいなあと思って注文すると、おばちゃん店員がなんかイタリア語でしゃべってる。よくわからんままでいると、パニーニじゃない甘いパンが出て来た。意味がわからん。

席を取りにいってた妻が、男の店員になにか呼び止められている。

聞くと、席は4ユーロとるらしい。カウンターでの立ち飲みは席代はいらないらしい。

時間もあるし眠れず疲れてたので、4ユーロ払ってテーブル席へ。
この時点で、パリで不自由なく優雅に過ごしてたときとのシビアなギャップに沈む。文化発展は国それぞれなのだと思い知った。
 
フレッチャロッサの時間になり、ホームへ行き電車に乗る。
新幹線みたいで乗り心地もよかった。が、旅行へ行く家族団体の子供達だらけですごく騒がしかった。自分たちが座るべき席も、最初占領されていた。
2時間半ぐらいずっと眠っている日本人は、子供達の目には変に映っただろう。
そしてローマのテルミニ駅に着く。
 

 

ローマのテルミニ駅の周りは、石造りの町並みで、日差しが強く、乾いた空気で、近代都市の観光地ではなく古代都市の観光地だった。

浮浪者が多かったり、道路に秩序がなかったり、ここも少し印象が暗かった。

12:00ぐらいに駅の近くのホテルに着いた。

ルームメイクが14:00までかかるということだったので、チェックインだけして、大きいスーツケースを2つポーターに託し、チップを渡し、お昼を食べに外へ出た。

 

さっそくパスタを食べようとお店に入ると、ボーイに片言の日本語で妻が口説かれる。もちろん観光客に対するリップサービスだが、そうかここはジローラモの国だったと実感した。

しかしパスタが本当においしかった。麺が太くてもちもちしていて、ソースがかかっているという感じではなく、ソースと一つになってようやくパスタというのだと、そのとき思った。これは日本にはない。日本のパスタは何だあれは。ちゃんとやってほしい。

 

ご飯を食べて、しばらく街を散策してホテルへ戻った。

ここには2泊しかしないから思い切ってランクをあげ、ジュニアスイートをとった。これが正解だった。

最上階のフロアで、すべてがジュニアスイートかスイート客用のフロア、全室テラス付きでローマの街が眺められる。

ここに来てようやく気が抜け、寝不足もあり夕方まで寝る。

 

 

 

起きてシャワーを浴びて、ドライヤーをつけたらブレーカーが落ちた。

とうとう来たと思った、この旅行英会話マストシチュエーションが。

フロントに電話をかけて、部屋に来てもらって、状況を見てもらったら部屋を出て数分後に電気が復旧した。よかった。

テラスは夕暮れの街の遠くの喧騒と風が気持ちよかった。ローマに来て、この街を眼下に見下ろして、支配的な気分になった。

部屋のサービスの紅茶をテラスで飲んで、休憩。本当にいい選択をしたと思った。このホテル。

 

夜は、同じフロアにあるテラス付きのレストランに行った。

パリに比べ、日が暮れるのは早く、夜の気温の落ち込みも早い。

テラスはあきらめ、室内でお食事。

日本人ツアー客が数テーブル占拠していた。

身なりの良いおばさまたち、若いカップル同士で仲良くなったグループ。

ひろおみが言っていたが、日本人の観光客はどう見たって日本人の観光客だ。

ここのパスタもおいしかったし、メインのお肉もおいしかった。一口目をミスってお肉じゃなく付け合わせのきのこを食べてしまったが、それでもこれはおいしいと直感した。

 

 

 

5月8日(木)「サンピエトロ大聖堂、ジョルノジョバーナ、倍返し」

 

この日はオプションツアーで、サンピエトロ大聖堂とコロッセオに行く日。

前に東武ワールドスクエアでサンピエトロ大聖堂を見た時に、なぜかえらく感激して、これは見に行かなければいけないと思った、ほかのどの国のどの建造物よりも。なんか絶対的な存在感を感じた。

 

↑東武ワールドスクエアのミニチュア

↓ほんもの

 

そして続けてコロッセオに行った。

ローマに来たのも、妻がジョジョが好きで、5部の終盤の舞台となるコロッセオに来たかったからという理由。

 

コロッセオの周りはローマの中心地ながら遺跡だらけの古代都市だ。

とても満足そうだったが、やはりツアーなので、いい感じのところで記念ジョジョ立ちをすることもできず、中途半端に終わる。ポルナレフも出てこなかったし。

やはりツアーはよくない。

 

 

この雲一つない青い空を背景に、コロッセオの壁が遠く高くそびえ立つスケールの大きさがよい。

このあと、ツアーに含まれているフォロロマーノ遺跡に行ったが、正直とくに遺跡や歴史にそこまで興味がないので、流し。日差しが強い中、疲れただけだった。

 

ツアー解散後、ピザを食べ、スペイン広場まで歩き、お土産をあさり、ジェラートを食べた。

この辺はうるさいほどに日本語が飛び交う。現地の人が日本語で客引きをしている。いまは誰が吹き込んだか「バイガエシダ!」が流行っていた。

 

そのあと、ジョジョ5部の最終決戦の地とされる、サンタンジェロ城のまえにかかるサンタンジェロ橋へ。

橋の両脇にある彫刻と空の雲の感じが、ジョジョらしさを醸し出していた。

 

 

 

5月9日(金)「アリタリア、ロストラゲッジ未遂、ANA日本人は神」

 

最終日、ホテルのチェックアウトを済ませ、さっそくフィウミチーノ空港行きの電車に乗る。

自動券売機で電車のチケットを買っていると、隣からおばさんがあーだこーだ券売機の使い方を教えてくれる。

これはやばいなと思い、ノーセンキューノーセンキュー言ってたが、チケットを買って出ると、さっきのおばさんがチップよこせと言って来た。

最初は無視していたが、厄介なことも面倒なので、適当に直径の小さい硬貨を1枚渡した。やっぱりイタリアはこわいところなのだ。

 

フィウミチーノ空港に着いて、飛行機のチェックインを済ませて、荷物を預け、出発までご飯を食べた。

パリのシャルルドゴールでトランジット、帰りは便利な羽田に着くようにした。

シャルルドゴールに着いたところで、トラブルに気づいた。

預けた荷物の、トランジットの便名が、我々が乗る便ではなく、成田行きの便が書かれていた。

これは。。荷物だけ成田に行くということ?しかしそもそも予約がおかしくなっているのかもしれない、日本に帰れないかもしれない、という恐怖が湧く。

シャルルドゴールのインフォメーションに聞いてみても、そこの人は、okという。日本?成田であってるだろ?という感じだった。成田と羽田が違うという事を分かってないのかもしれない。

とにかくターミナル2Eへ行けと言われた。そこはターミナル2のインフォメーションだったのだが、羽田まではANAを予約していたがターミナル2にはANAはない、JALだけだ。そこの人はJALもANAもわからないのかもしれない。

とにかくまずいと思い、日本人としゃべらなければと思い、ターミナル1のANAのカウンターを目指してターミナル間モノレールに乗った。

便を予約するときに、トランジットでなんかあるといやだから待ち時間は十分とっていた。

 

ターミナル1に着いて、ANAのカウンターで日本人の男のスタッフを見つけて事情を説明した。この人は神だった。

予定通りの羽田着の便にチェックインできた。成田に行きかけている荷物は引っこ抜いてちゃんと飛行機に乗せてくれると言う。

日本人と日本語で話せてほんとうによかった。最悪、成田についても日本には変わりないのでなんとかなったかもしれない。

たぶん、イタリアからのアリタリア航空のイタリア人が、適当な仕事をしたのだ。シャルルドゴールのインフォメーションも適当だ。とんでもない。

空港のスタバで休憩し、村上春樹を読んで時間まで待った。

 

搭乗の直前、自販機で水を買って小銭を消化しているときにアナウンスで自分の名前が呼ばれた。

またなんか起きたかと思ってカウンターにいくと、さっきのANAの神兄さんがいた。

荷物の新しい、正しい引換券を渡してくれた。これで大丈夫らしい。

神だと思った。

 

 

そうして、飛行機は出発し、羽田に到着してしっかり荷物を受け取り、なんとか無事に7泊9日のハネムーンが終わった。

日本はすばらしいところがたくさんあるが、自己責任の国の自由さやおおらかさが心地よい。

頭はしばらくパリから帰ってこなかった。

 

 

おしまい。

 

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10/19 i want you back

結婚してきました。

 

これはタナーが撮ってくれた写真で、さすがタナーというか、友達だからこそ撮れる雰囲気をつかんでると思います。

カメラマンさんが撮った奇麗な写真もありますが、それよりもこれがその場の空気感が凝縮されてて一番のお気に入りの写真です。

 

奥様が海外映画に出てくるような庭で挙式に憧れ、このような景色となっています。

 

 

実家の中間地ということで、京都を選びました。

が、

気安くそんなこと考えるんじゃなかったと後になって後悔します。

 

毎月打ち合わせにいくのに、金曜の夜発の夜行バスに乗って土曜の朝に京都に着き、土曜の夜発の夜行バスで日曜の朝に東京に帰ってくるという強行スケを繰り返し、ときには病院に運ばれバスに乗れず、ネカフェで一晩明かしたこともありました。

 

ゼクシィネットから探し、何軒か見学して、一番雰囲気が気に入った会場です。

1月に見学に行って、その時点ですでにどこの会場もいい日は埋まってたのですが、ここは都合良く秋の土曜大安の午後という理想の枠にキャンセルが出てたので、すぐに決めました。

自分は豪華絢爛どーんという感じの披露宴会場で高砂に座る自分が想像できなくて、身の丈にあった、等身大と言いますか、そういうサイズ感がいいなあと思い、披露宴も堅くなくただご歓談の時間が続く楽なやつがいいなあと思ってました。

 

 

京都に何回往復したことになるのか。

嵐山付近ですが、これといった観光はできず。ただ渡月橋を歩いたりしたぐらいか。

去年の雪の日の1月から、春の桜をみて、梅雨が過ぎ、夏の日差しの中アイス食べたり、秋になったら10月まで一瞬でした。

あそこで一通りの季節を見てきたと思うと、けっこう愛着がわいてくるものです。

いいとこだったなあ京都。

 

 

式の前日に京都に入り、夜は吐き気がするほどなにも手につかなかったです。

乾杯の挨拶やら、締めの挨拶を考えるわけですが、頭がぜんぜんまわらない。

翌日の朝に婚姻届を出す予定で、入籍してもないのに気の利いた挨拶なんかなんの想像もできませんでした。

 

そして当日の朝、京都の下京区役所に婚姻届を出して入籍しました。書類処理なんぞあっさりしているもので、それよりもこの後の式のことで頭がいっぱいだったのですが、ここで思わぬヒントを得て、乾杯の挨拶に使ってやったのでした。

 

 

耳すまのサントラをBGMに新郎入場してやった。他のどの曲よりも自分はこれしかないと思った。色んな意味で。

だれか耳すまと気づいたのか。タナーはさすが気づいたらしい。

そしてAEROSMITHをゲスト入場BGMに3曲もチョイスしてやった。

この時点でけっこうな満足感。

 

 

あとタナーの写真でぱらぱらと。

 

 

自分の人生の一遍ですが一区切り、だいもうさんがこうやって代表挨拶をしているこの画は感慨深い物があります。

 

 

スピーチはさすがというか彼ならではというか、やらかしてくれました。

おかげでこの正月、どちらの親にもあわす顔がない。

説教です。

 

 

自分も他のひとのときにやってきたサプライズ演奏、今回もきっとあるかなでも京都だしないかなとか思っていたものが、式の最中はまったく頭から消えていたところに、堂々のサプライズ。

やられました。大変だったろうに。

 

やったことがあるぶん、わかるところも感じるところもあり、こんな嬉しいもんかねと、やられてからその凄さを知りました。

やーこれはたまらなかった。

 

 

 

半年以上かけてやってきたことが、たった半日で終わり、そのあっけなさにしばらく呆然としてました。

一生に一度しかないこの日にパワーかけてたけど、その成果を噛み締めることなく、本当に、あ、という間に終わった。

 

二次会はとくに決めず、みんなが集まってる飲み屋さんをまわったけど、それも一瞬だった。

結婚式ってそういう寂しさがつきまとうよね。人のでもよく思う。

せっかくの良き日に集まったのに、その時間は一瞬で終わってまた日常。

生きるとは、時を経るとは、自分にふりかかるいろんな寂しさがどんどん増えていくもんなんだと、自分は思う。

 

 

 

そうだみなさん、うちに遊びにきてよ。寂しいのだ。

家のドアにはクリスマスオーナメントを飾ってそれっぽさを演出しているよ。

これ12月限定だから、だれもうちにこなかったら飾ってる意味ないまま片付けちゃうよかわいそうに。

新たな植物も育てて、ベンジャミンのジャーミンって言うんだけど、それもオーナメントつけられたり雪に見立てた綿をつけられたりしてるよ。かわいそうに。

 

ぜひ。

 

 

 

結婚しました。みなさまありがとう。

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暮らし

8月最後の週末、退職し、帰りのその足で新居へ引越し、翌月曜から新しい職場へ出社。

それから1週間経ちました。

 

家の片づけは出来高50%といったところですが、憧れた家具と憧れた多摩の街で満足感に浸って暮らしています。

新しい会社では、とりあえず今のところ転職の動機として次の職に期待していたこととそんなにズレはなく、こちらも意外にストレスフリーにやっています。

それでも2日目から胃腸がぎゅうっと痛くなるようになりました。いまはもう大正漢方胃腸薬で治りましたが、胃腸が痛くなるとか人生初でした。このおなかの痛みはなんだ、これが胃痛か、胃腸はここにあるのか、という感じに。

 

仕事は、社内の環境、体制、給与、ワークライフバランス、職種、市場、可能性などが期待したとおりです。

 

 

家について少々。

 

お世話になった不動産やさんのHPの事例集に載りました。

 

家を探し始めたのはこの前の冬と春の間ぐらい。

当初賃貸を探していろいろと沿線をまわったり不動産やに行きましたが、立地や間取り、築年数など求めるものと、現実の相場とがかなり差がありました。

そして不動産やの、ぐいぐい来るちゃらい押しにあきあきしていました。

この物件はお勧めです、とか言いながら次から次へと適当な物件を出してくる。こちらの希望の的を得ていないことも察することなく、とにかく家をさばいて売り上げをあげたい感じ。

 

そんなときに、今回お世話になった不動産やさんを見つけました。

そこはかつて大手企業に勤めていた方が独立し起業した会社で、その方いわく、「世の中の不動産やは10人のお客がいたらその中で3人から契約を取れればよいというビジネスの仕方。うちは3人のお客さんの3人全員と向き合って満足してもらう」というスタンスでした。

 

そこは中古マンションを得意としています。

自分もすっかり染められたのですが、その利点は、

・新築は建つ前に購入するから実際に中身や景色や環境がわからないから中古がよい

・新築はお値段が高いがすぐに中古として値が下がるが、もともと中古なら売却するとなっても値下がり幅が小さく損がすくない

・中古ならリフォームを加えることによって新築にはない自分の好きな部屋を作ることができる

とかそんな感じです。自分が言葉にして箇条書きにすると薄っぺらいですが、ここの考え方は今のご時世にマッチしてるんじゃないかと思います。

 

リフォームで好き勝手できるわけですが、将来どんな家具を置くかとか、子供が出来たらこの間取りで大丈夫かとか、そもそも購入しちゃったけど転勤とか引っ越すことになったらどうするとか、いろいろとリスクを考えるわけですが、その不動産やさんの設計担当さんに言われたこと、「10~15年先の生活まで満たそうとすると何も決まらなくなる」という言葉で、わりとすっきり、家を買うことを楽しみました。


間取りが生活に合わなくなったらその時はその時です。

引越しで売らなきゃいけなくなったらその時はその時です。

それも中古であれば新築ほど値は下がらないし、むしろリフォームして綺麗にしてるのでひょっとしたらもっといい値段で売れるかもしれない。

将来的に、家族が増えたときの間取り変更は、すでにちょっと考えていたりする。またリフォームする楽しみがある。

 

 

間取り図打合せしたり、イケアに行ったり建材とか照明のショールーム行ったり、ネットでもの探したり大変だったけど振り返れば楽しかったなあ。

 

 

そんな感じです。そんな感じでローン生活です。

次は車と、夢のペットと。

 

 

バスが充実した京王・多摩地方。よいですよ。

 

 

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できた

 

リフォーム完成。家具が入る前のまっさらな様子を記録に残しておく。

目玉はイケアのオープンキッチンとチェリーの無垢材フローリング。と白い壁紙とささやかな照明。

 

写っているのは工事の担当者さんと設計の担当者さんとそのお子さんたち。(ワーキングママ)

お世話になりました。

 

明日の夜引越し。たまらん。

 

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もうひとつ隣の斜め上のステップ

9月から転職することとなりました。

 

大学を出て5年とちょっとお世話になった会社からようやく退職願の受理通知が返ってきて、翌日次の会社から内定をいただきました。

新居、結婚式を控え、自分は何をやっているのか、育ててくれた会社の人たちに対して、何を言ってるのか、頭がおかしくなりそうですが、いえ、おかしいのか、しかし確かに一アクション進みました。

 

けっきょく、音楽とか音とかがすきなのです。

今の会社は、音楽を芸術として扱える仕事をということで探して、プロオーディオという世界を知りその楽しさを知りました。

しかし芸術面だけでは自分が納得しないときがあり、もっと音の理論や本質にせまるところに頭を使いたいと考えるようになりました。

大学で勉強したような内容に、いまごろまた興味がわいてきたのでした。

けっきょく。

自分の興味対象はそこにあったようで。

ただそれはいまこの瞬間の自分に分かることで、数年後はさらにわかりません。

 

なにも、ばりばりの開発をしたいとか言うことではありません。

音を扱う以上、確固たる知識の環境に身を置きたかったのです。

現状からすると、理想とする環境を思い描いたときに、それがずれてきたことが大きなきっかけです。

大学院に進むという選択肢をとらなかった人間が、おこがましいわけですが。

 

 

外資系の音響機器メーカーに行きます。

世界を視野に入れている企業で働いてみたかった。

仕事をする人間としての、世界に通用するスタンダードを知りたかった。

そういう動機もあります。

 

なんにせよ、今以上にがんばらねば。まずはスタートを切れることになったのでこれからが大変です。

 

今年はもうしんどい。

 

 

さて、聖蹟桜ヶ丘のほうはリフォームがはじまり、いろいろとむき出しになっています。

リビングと隣の和室の間の壁をなくし、空間を広くします。

 

 

東京から、やっぱり地元に帰る、という人をさいきんちらほら見るようになりました。

いまのところ自分にその選択は想像できない、でもどこか羨ましい。

想像してみてもどこかちがう、でも羨ましい。

 

自分はこの街で暮らしていく。

景色は穏やかに、しかし激動の夏が過ぎます。

 

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次のステップ

さくじつ、人生で一番の額の現金をかばんにしのばせ、家の購入の契約をしてまいりました。

 

 

福岡から上京して千葉に住み、選んだ駅をミスったか、そこは寝るためだけの街でした。(個人的な感想)

土日はツタヤかダイエーしかなく、まさに昼寝ばかりして夕方になる毎日。

買い物に都心に出るのも片道一時間かかる、これは20代の若者がせっかく東京にいるのにもったいないと思い、都心に引っ越すことを決意したのでした。

家賃があがるのは覚悟、それで時間を得られるのであれば、金で解決できることはしてしまおうという無邪気な発想です。当時は家賃も安く昼寝ばかりでお金に余裕はあったので。

 

最初に住んだ街の反動で、次は都心で誰しも聞いたことのあるネームバリュー第一で探そうと思いました。

三軒茶屋、神楽坂、あとは渋谷新宿へのアクセスを考えて明大前とか。

結局恵比寿にしたのは、街がごちゃごちゃしすぎずかつにぎやかで、住むイメージが出来たとこ。

なんとなくだけど、大橋に似ている気もする。駅に集中して依存する感じがなんとなく。

 

それと角部屋の窓からの景色に一目ぼれした。

東京タワーが見え、六本木ヒルズが見える。

「都心に住んでいる感じ」を求めていたミーハーには満足するものでした。

 

前の家に比べてたくさんの人がうちに来た。立地の変化はこういうところに影響するのがわかった。

とてもよい判断だったと思います。

 

だいぶ満喫しました。この部屋でいろんなことがあり、この街をたくさん歩いた。

次は将来を考え田舎に住みます。

 

 

東京に出てすぐ、「耳をすませば」の舞台の聖蹟桜ヶ丘を訪れたとき、直感的に「ここは将来住む街だ」と興奮して思ったのを覚えている。

家を探すにあたり、関東圏の土地勘・通勤アクセス・地域性とか、選択肢がありすぎて当てがない。どこもかしこも住みやすかったり通勤しやすかったりするんだろうけど、ひとつここと決めるのにはぴんとくるものがない。

 

そこで聖蹟桜ヶ丘を選びました。笑う人もいることでしょう。

ただ家さがしに何度もあの街を訪れていると、川があって丘があって駅前が栄えてるけど自然もあるあの街で暮らすことを想像すると、他の街を考えるより一番穏やかな気持ちになる。

子供を育てるにはあのぐらいの環境がいいなあと、仙台生まれ福岡育ちの地方者は思ってしまう。

 

ゆるりと暮らします。

東京に家を買うのには最後の最後まで抵抗があったけど、あとは勢いです。

中古マンションなので、リフォームをいれてキッチン替えたり照明いじったりフローリング材替えたりしてやるんだ。

転居が8月ごろの予定。

 

未来はわからないものですね。

 

 

きのうは難しい書類に、作りたてのフルネームの実印でぽんぽんぽんぽん判子をおしまくりました。

押印する書類が次々とまわされ、押していくうちにもう自分の目の前の現実の意味がわからなくなるほどです。

そんなイベントをさらっとすませ、あとは走るのみです。

レールは目的地が見えないまま足元のちょい先に敷いていきます。

そのちょい先まで走るのみ、その繰り返しです。

 

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結婚することにしました

 

結婚することにしました。どうだ、すごいだろう。

 

お付き合いをはじめて2年も経ってないから世間的には短い早いと言われるかもしれないけど、年末、なんか急に思い立って指輪を買いに行きました。

急にといっても、夏ぐらいからなんとなく結婚したいと思うようになって、それからずっとどんなふうに言おうかどんなタイミングで言うべきがずっと考えてました。

 

夏にそんな風に思ったのも、帰省で実家で何もすることがないときに自分のことをふと考えてみて、

自分は働きだして5年の27歳で、お相手さんは1こ下の26歳で、

自分の家族も相手の家族もきっと子供に対してそろそろ何かそういう機会があってほしそうな感じがあるような気がして。

それから彼女を結婚相手として意識するようになりました。

 

彼女は一緒にいて楽しい人です。

自分と性格が反対とまでは言わないけど、お互い持ってないもの持ちよって、たぶん自分一人じゃ味わうことなかったであろう毎日を過ごしていると思います。

自分は

頭が固くて

愛想がなくて

壁を作りやすくて

人の目を気にして

考えの違うものを嫌って

気持ちが弱くて

怒るとすねて

素直じゃなくて

小さいころから親に「あんたは損する性格だ」と言われていました。

 

彼女は

ぽかんとしていて

マイペースで

小さいことを気にしなくて

人に正直で

人の懐に飛び込みやすくて

好かれやすくて

好物に目がなくて

強くて

一緒にいて倍楽しい。助けてもらうことが多い。ゆたかになった感じがします。

 

すごく強い人だけどたまにある弱いところは自分が守らなければと思わせてくれる。

 

 

おいしいカフェとかお菓子とか甘いものの味の良し悪しがわかるようになったし、スノボにいまさらはまったし、食べたことない料理を作ってくれるし、テレビゲームをするようになったし、自分の好きなものが彼女の好みにだいぶ寄っていった気がする。

 

彼女の好みが自分に向いてくれるよう、自分も頑張らなければと思わせてくれる。

 

これからきっと家族になって、家庭を築いて、子供ができて、学校行事に出たり、成長を見守ったり、たまに家族旅行して、いつかまた子供が結婚して、家族が増えて、そうやってこれから5,60年ずっと起こるイベントに、彼女といることを想像すると、幸せな気持ちでいっぱいになる。

 

仙台で生まれて仙台で育って、

福岡に引っ越して福岡を好きになって、

東京で働き出して、ただそれだけの27年だけど、なんとなくいい頃合いだ。

結婚するよ、こんな私なんぞが。ありがとうです。

 

 

まだ家族に挨拶しただけで籍も何も、式の時期も何も決まってないし、つまりただ決心した気持ちを伝えただけに過ぎませんが、

これからもよろしく。あたい幸せになります!

 

 

 

 

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k-onの大きさ

(写真はすべてタナーから拝借)

 

k-onセッション大会&打ち上げ大会&二次会大会inTokyoがありました。

 

自分が部長してた頃にいた学年を集めてみました。

動機は簡単、好きだった光景をもう一度見たかっただけです。

 

けいすけさんの結婚披露パーティーに行ったときに、皓さんとか古城さんとかシェインさんとか、安心の先輩たちが並んでるのをみて、あーこうやって憧れて見上げて過ごした先輩がこんなにいるの久しぶりだなーいいなあーと思って、

そういえばいままでk-on飲みというのがなかったなーと思い。けっこうな人数東京にいるらしいのに。

 

それだけです。

田すずめの打ち上げで憧れの先輩とかわいがった後輩がぐちゃぐちゃにいるのをもう一度見たかっただけです。

 

呼びかけのメールしてる時に知らない先輩からもどっさりメールが来て、楽しみにしてくれたり感謝されたりして、それだけでおれの仕事はもうここで終わってよい!と思いました。

 

 

セッションは、危ないながらに楽しかった。

先輩はうまい。久しぶりに見たり聴いたりすると懐かしい感じが強いのですが、

現役で音楽してる先輩は懐かしさよりもうまくなってる感じがはんぱなかった。決して上から言ってるわけではありません。格の違いを見せつけられました。

 

社会に出てからの音楽の付き合い方をけっこう考えてたけど、これはひとつ正解な気がしました。

仲間でバンド組んでスタジオ入って、でもライブをするバイタリティはない、でもコピーをやるには飽きる、オリジナルをやるには目標がない、でもライブをするにはーて感じの悶々とした感じ。

ただ、こういうスタジオセッション大会なら、素直に人の演奏を楽しめるし組み合わせも自由な楽しさもあるしその場でコピーをやってもいいし課題曲を決めるのもいいし。そのへんの手軽さは参加のハードルを下げてくれるし。

 

5年ぶりの堕ちる前にトぶ。あんまり弾けなかった。

セッションには30人弱。

打ち上げには50人弱。

二次会で50人越え。

 

ずっと笑ってた気がするけど何しゃべってたのか覚えてない。そんな感じでしたよね。

どのテーブルも好きな人だらけで、まさに、見たかった光景でした。

人が好きなんです。

 

三次会の阿佐ヶ谷には行けませんでしたが、帰り道、うちに泊まるタナーとこーじーさんで一風堂へ。やはりそうでしょう。

たしかこーじーさんはELTを絶賛しながらそのまま眠りにおちた。

 

翌朝 INN JAPAN を聴いて、ふたりとも早々に帰られました。

 

こんな思い付きにわざわざ遠くから来たみなさんに感謝です。

北海道・名古屋・大阪・福岡・鹿児島からわざわざ。

 

大学のときもそうだったけど、優秀な幹部に支えてもらって、尊敬する先代部長に支えられて、ほかたくさんの人が自由に楽しんでそれがk-onを成して、k-onたらしめているのですね。

 

 

軽音楽部、大きいですね。拍手。

 

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もんもんと

さいきんテレビ見てて思うことがありまして。

 

インターネットに投稿されている動画を紹介する番組とか、

ツイッターを押し出した番組とか、

スマホアプリを紹介する番組とか、

 

そんなテレビ見るまでもなく個人的にネットしてりゃ済むような内容のものが多い気がする。

インターネットの情報量とリアルタイムの魅力と、それに慣れた目が求める質に対してテレビが追いつけてない。

 

テレビの強みってプロの仕事としてのレベルの高い編集であったり、テレビという肩書でしか作れない製作費のものだったりだと思うけど、これまた素人の目がネットの広大な世界で目が肥えてしまって、それに応えることのできない下手で時代遅れな編集が多い気がする。

いまだにそんなチープな編集かあと思うのが多い。

 

 

テレビがネット世界の顔色うかがって、追いかけて、結果ざんねんなことになってるように見えます。

なにかあればすぐにネットで叩かれて謝罪したりしてるのも事実。

 

 

テレビにそういうのを期待してるんじゃないのになあ。

テレビでしか作れない情報や編集の質を見たいのに。

 

マツコデラックスが言ってたけど、

昔は街角リポーターの後ろでわいわいピースして映り込もうとする輩が多かったのにさいきんはそれを見ない、

それってテレビがそんなもんだってことだよね、昔はテレビの世界があこがれの対象だったのに今はそうじゃないってことだよね、

と有吉に言ってたけど、はーそういえばなるほどねーと思った。

 

ネットの住人なんて言葉も世間一般の人々がほぼそれである時代で、SNSで徒党を組んでマジョリティに染まっていくことが簡単であるがゆえ、ネットのパワーはすごいことになってるけど、

テレビがそっちに流れちゃだめだろうと、思います。

テレビにしかできないものがあるのでは??と。

 

散文。

 

 

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そう、

映画「SAW」をはじめてみた。

 

だめだああいうの。沈。

心中図りしれん。

 

 

 

休み明けの月曜が毎回しんどい。

あさ会社に着いた瞬間かえりたくなる。

 

それなら月曜が休みになればいいのにという次の日のことをさらに省みない愚発想。

それか月曜がかもしだす休み明け感という概念がなくなればいいのに。

 

 

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寝むりっくす

通勤中、吊革につかまって立ったまま寝る「立ち寝」をよくする。

これを覚えると通勤時間も睡眠時間にあてることができ、そのぶん活動時間の拡大につながり効率的かつ便利。

 

次なるステップは「歩き寝」だと思う。移動中すべてを睡眠時間にあてることができる。

これを習得できれば生命体として一歩先へ進めると思う。

 

 

 

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外国人

きのう、外国人に道を尋ねられたわけですが、その夜の夢の中で

「あー、彼らはイタリア人だったのか」と勝手に国籍を結論付けました。なんだそりゃ。

 

 

毎朝の駅までの通勤路、このごろおなじ時間でも日陰がふえてきましたね。

 

 

 

 

 

 

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I.G.Y.

donald fagenのI.G.Y.

ベースが曲を支配している曲。とぼくは思う。

基本に忠実ながらも秀逸なフレーズで教科書決定です。

あたま拍をとらないそのやり方はラルクのブルーリーアイズをほうふつとさせます。

テツさんすごいよ。

 

単調といえば単調ですが、3:40あたりにさしかかるとそれまでの3分40秒間はこの瞬間のためにあったのか!とゾクっときます。ぼくは。

 

 

さいきんだだはまりしている爆笑問題カーボーイを聴きながら筋トレでもします。

太田の才能とか、太田の声のアルファー波の多さとか、中毒的に聴いてます。

街中で聴いてると笑いをこらえるのに大変でよく変な顔になってます。

 

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音を楽しむと書いて

USB入力の真空管アンプわははーい。マニアではないけど、なんとなくかっちょいいその響きに飛びついてしまった。

 

CDを聴くのもituneもpodcastもDVDの音も、PCからこれでシンプルに快適に。

音質の善しあしは別に求めてないのでいいのですが、なんとなくいい感じなのがとてもいい感じだと思います。

 

 

「愚痴言わないね」と言われました。

がしかし、がんがん言ってます。うらで。

環境に対して言うことはたしかにないけど、人に対してはがんがん。小さい人間。

ようはそれを人前に漏らすかどうかが大きくて、自分だって本当は愚痴を漏らすどころか感じることさえないような謙虚な人間になりたい。からあんまり言わないようにしてる。けどがんがん漏れる。

謙虚なそういう人に憧れる。

 

そういえば高校のとき先生が、遅刻で来てない生徒に腹を立てて、本人がいないのに「来ている君たちに言ってもしょうがないけどなーガミガミ~ガミガミ~」て怒り方をよくしていたなあ。

あれはよくない。

それも教育なのかもしれないけど、子供相手に愚痴でしかない。

子供は子供で、そんな大人からいろんなことを感じてしまうのだなあ

とそんなことを思い出した。

 

このまえ高校の友達と飲んだこともあって、そんな懐古を。

いや、そもそも愚痴はよくないねってお話でした☆

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ここにいる人々 ここにいない友達も

きれいなミュージックビデオ。見おわるころにホロリときて、せっちゃあああああん!と叫びたくなる。

 

お酒をのんでかえってきました。

お酒をのむ余裕があるということは、会話に華咲かせられるほど他人を受け入れる余裕もあるということ。

いろんな人に会いたくなった。

やっぱり基本的に人が好きらしい。

 

しばらく連絡をとっていない越智さんは元気だろうか。

また梅ちゃんとも遊びたい。

飲む約束をしたきりそのままの健二はいま何をしてるだろうか。

去年同棲していたあゆはもう社会人になるのか。

考え込みやすいひろおみは春からどうなったのか。

がーさんはあいかわらずか。

むかしたまごっちが流行ったな。

ほしくてしょうがなかったなたまごっち。

あれ今やったらこのスマホ時代に逆にちょーおもしろいんじゃないか。

あーほしいなたまごっち。

たまごっちほしいなたまごっち。

 

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えりあし

いやはや、ははは、あっというまにときは過ぎるもので。

更新がぴたりととまったのも、なんやかんやしてたりパソコンがぶっこわれたりしてました。

 

facebookていろんな人がいるからついつい探してしまったりするんですね。

記憶をずっとたどっていくと、そのむかし仙台から引っ越した15年ぐらいまえにまでふど気づくと踏み込んでることがあります。

15年まえなんておおきい時間をいつのまにか扱える歳になるほど、こんなとこにまで歩んできたものだ。

 

そしてさすがfacebook、いるんですね、なつかしい友達が。

でもやっぱりためらいがあるのです。

おおきい時間がたったいま、ふたたびコンタクトをとるのは度胸のいるもので。

 

でもいきおいでポチっといってみました。

すると、「はやっつぁん?!」と昔とおなじ呼び方で返してくれました。小学生にしてはルパンを逮捕したがってる感じのあだ名。

ただしくは「はやっっあん?!」と小文字のタイミングを間違えて発音しにくい表記になってました。

 

なんか懐古じみた文化だな。いまのネットの力でむかしの付き合いを全部網羅させられるというか。

 

 

とかを最近いろいろ考えながらね。

タイトルは、ipodでaikoのえりあし流れて、いい曲だなあと思ったので。

aiko聴いてもまばたきするのが惜しくなったりとか切りすぎた前髪右手で押さえたりとかはないんだけど、えりあしは名曲。

 

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雪夜のソングジョッキー'90

びっくりするぐらい雪が降っているので、

雪が好きでたまらないわたくしはかれこれ小一時間興奮しています。

 

雪はなんといいますか、眺めているだけでヒーリング効果がありますよね。

鼻につく石油ストーブの匂いあふれる暖かい部屋で、甘めのコーヒーいただきながら、とか。

カーテンをさっと開けたら夜なのにちょっと白く明るいとか。

 

 

このまえひさびさにスキー場へいって雪をたらふく味わってきてまもないこの大雪。

 

頭の中には広瀬香美のほっぺたばかりが浮かびます。

 

 

こんなものをひさしぶりに聴いたりするけど、これはいい曲だ。

その当時のトレンディーさのようなそわそわしたものが全体に漂っている。

Bメロの転調とか半音の使い方とかがぞわっときます。

 

こういうアレンジまでちゃんと力の入った感じが、あなどるやなかれポップスの素晴らしいところだと思います。

自分が歌ものが好きなのはこういう、ちゃんとバックバンドがバンドに徹しているようで徹していない、歌と一緒に歌ってる感じが、ボーカルの後ろにいる楽器隊としてあこがれるのですね。

 

 

こうやってyoutubeをみていると90年代のすばらしきなつかしきJ-POPがたくさん出てきたので

しばらくいちおしソングをどんどん出すシリーズに突入します。

 

 

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